安寿の本棚

□ 罪の書 青の記憶を綴って □

3 無原罪の御宿り

 ジャン師の気配を振り払うことはできなかった。何も見えぬ闇の中で、何も見えぬはずのジャン師のまなざしがずっと私に注がれていたような気がする。
 夜明けまでの短い時間、浅い眠りを漂いながら私は切れ切れに夢を見ていた。
 松ぼっくりを抱いて眠るときにはいつも決まって同じ夢を見たものだが、あの時、アデルバーデンからザンクト・ホルストにもどる旅の途中では、胸に抱いている松ぼっくりの感触もまた夢の一部だった。
 夢の中で、私が見つめていたのは聖母マリアの御姿だった。
 サローが描いた受胎告知の挿し絵。
 まだ少女であった聖母の姿だ。
 柔らかそうな頬にサローの指先が繊細に刺した白に溶けゆく薄桃の色。華奢な肩を包む衣を彩る青金石の濃淡。華奢な肩に落ちる髪の房の金。大天使ガブリエルに見守られて、聖母マリアは授かった光を大切な宝物のように手のひらに押し包んで胸に抱いていた。
 私の記憶を総浚えしてみても、あの絵を越える美しい色彩を探し出すことはかなわない。
 聖母マリアはまぎれもない少女の姿として描かれていたが、その絵を一目見た瞬間から、私はそれが私の姿なのだと悟っていた。

 それは、僕……なんでしょう、サロー?

 あのころ、私まだほんの子どもだったが、己の容姿に自惚れる罪深さは知っていた。だから、実際にはその言葉を口にすることはできず、ただ夢の中でだけそうサローに問いかけていただけだ。
 繰り返し、繰り返し……その答えを得たいと願いながら。

(あれは、サローのくれた松ぼっくりを抱きしめた私の姿だ)

 夢の中でさえ明確な答えを得たことはないが、私は今もそれを疑っていない。
 私は描かれた聖母のように長くしなやかな髪は持っていなかったし、身につけていたのは目の粗い陰鬱な色合いのすり切れた僧衣だった。サローのくれた松ぼっくりは聖母の授かった恩寵のような眩しい光を放ってはいなかったけれど……。
 けれど、あの受胎告知の挿絵を描いていたときのサローのまなざしは、確かに私に注がれたまなざしと同じものだった。



「森で拾った」

 まるで押し付けるような強引さで松ぼっくりを差し出したとき、サローはぶっきらぼうにそう言っただけだった。
 ――私は九歳の子どもだった。
 ザンクト・ホルスト修道院では、まだ幼すぎて葡萄園での労働には使えない子どもたちは人数の足りない写字室の席を埋めるための頭数と見なされていた。サローほどの差別にさらされていたわけではなかったが、がつがつと飯を食らうばかりで役立たずの子どもたちは修道院が抱え込んだ厄介なお荷物だったのだ。
 そのころの私は、木枠に蝋を流し込んだ写字板を渡され、刻んだ文字が見えなくなる夕暮れまでラテン語と暗号の筆記を仕込まれ続けていた。
 十歳になるまでに使い物にならなければ、葡萄園に送られて農奴として使われることになっていた。私より年長の子どもたちは全員、そうして十歳になると写字室から姿を消し、私が最後に残ったひとりだった。

「くれるの?」

 私はまず松ぼっくりを見つめ、それからおずおずとサローを見上げて、そう尋ねた。
 ああ、とサローは小さく頷いて私を見下ろし、いつも険しい表情をそのときだけはかすかに緩めた。それはおそらく、私が染みるような喜びに震えていることを見抜いたからだったのだろう。
 それは私が手にした、たったひとつの玩具だった。
 森に入れば松ぼっくりなど珍しいものではないのかもしれない。だが、それさえも、それまでには与えられたことはなく、私は自分が何かを所有することがあるなどとは考えたことさえなかった。

「花のようだね。木で作った花……」

 私は手のひらの中の松ぼっくりに再び視線を落としてそうつぶやいた。
 サローの拾ってきた松ぼっくりは子どもの手には余るほどの大きさで、花びらのように重なりあう笠はどれひとつとして欠けてはいなかった。
 それは黄金のように価値のあるものだと私には感じられた。
 森には無数の松ぼっくりが落ちているだろうが、これほど美しいものは決してないだろう。挿絵に使う顔料とするための草花を求めてたびたび森に入っていたサローが、その無数の松ぼっくりの中からもっとも美しいひとつを持ち帰り、私に贈ってくれたのだ。
 そのことが、たまらなく誇らしかった。

「俺にとっては、花は……おまえだ、ヤン」

 小さくサローがそうつぶやいた。
 その言葉の意味が分からずに顔を上げたとき、サローの手がふわりと動いて私を包み、ぎゅっと強く抱きしめられていた。

「……」

 驚きのあまり、声も出なかった。
 それは明らかに見習い修道士に相応しい行為ではないのだと分かっていたが、私はしばし我を忘れてその心地よさに酔った。幼児のころに父母を失って修道院で育った私にとって、それは初めて知る人肌のぬくもりだった。
 峻厳な修道士たちの生活では手を触れあうことさえ性愛の行為として扱われ、禁忌に等しかった。性愛の意味など当時の私は何も理解してはいなかったが、淡く身を疼かせる震えにまったく無知であったわけではない。
 サローが見下ろしているのだと気付いていたが、私は顔をあげることが出来なかった。そうしてまなざしを注がれることにさえ、私は不馴れだった。そのまなざしにくすぐったいほどの羞恥を感じながら、私はただじっと、その抱擁に身を預けていた。
 サローの胸の奥で脈打つ、少し早い鼓動を感じ取りながら、もう二度と、サローが森で松ぼっくりを見つけることがありませんようにと祈っていた。
 私以外の誰かにサローが松ぼっくりを渡すことがありませんように……。

 サローが受胎告知の挿絵を描いたのは、それから数カ月あとのことだった。
 私は葡萄園に送られることなく十歳になり、暗号筆記者となるべく本格的な教育を受け始めていた。
 ザンクト・ホルストにはたった一枚の鏡さえなく、私は自分の姿を知らなかった。
 だから私はあの絵に描かれた聖母マリアの姿を通して、初めて自らを知ったのだった。サローの褐色の肌とは違う、自分の肌の色を。いつも短く刈り込まれて視界に入ることのなかった自分の髪の色。そして、聖母マリアの衣と同じ青金石の目の色も……。

 そしてサローがあの日から惜しみなく私に注ぎ続けたまなざしに潜む、愛の存在を知った。



 あの絵を描いたとき、サローはまだ十六歳の見習い修道士に過ぎなかった。
 褐色の肌をした見習い修道士は明らかに異質であり、修道院の中でもひときわ目障りで厄介な存在として疎んじられていたが、その才能はすでにザンクト・ホルストの輝かしい財産として修道院長の寵愛のもとにあった。

「写本絵師サローに限っては誓願後も聖務日課を特別に免除するものとする」

 修道院長の〈温情溢れる〉その言葉によって、サローは修道士としてザンクト・ホルストにありながら野性の獣のように放置され、修道士としてあるべき全ての秩序から締め出されることになった。
 サローがその才能をもって充分に神に奉仕するための措置だ。
 修道院長は平素以上に威厳溢れる表情でそう語った。
 院長によれば、異邦人であり、異教徒でもあった母親を持つサローは、その生まれからすでに一歩劣った存在であり、神の御許に近づくためには並みの修道士以上の働きをせねばならないのだという。
 サローの姿が視界に入ることを避けたいと望みながら、サローの才能を修道院の収益に結びつけたいという欲もまた棄てきれず、その相反するふたつの思いの間で板挟みになった院長はその口実を幾晩も考え抜いたに違いなかった。
 なぜサローがその状況に甘んじたのかは、あのころの私には分からなかった。
 誓願して正式な修道士となれば、サローは修道院長の要求する白い肌、金色の髪のイエス・キリストや聖母を描くことを死ぬまで強いられることになる。誇り高いサローにとって、ただ餓えぬ程度に与えられる食事と引き換えに選び取れる道ではなかったはずだ。
 修道院の誰もが誓願を迫られればサローは立ち去るだろうと考えていたし、私もまたそれを予感し、何より恐れていた。

 私は……サローを失いたくなかった。




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Date:2011/03/28
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UserTag: BL小説  18禁  須藤安寿 
Thema:自作BL連載小説
Janre:小説・文学

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