安寿の本棚

□ 罪の書 青の記憶を綴って □

4 GLORIA

 私に暗号を教えた老いた修道僧が写字室を去ったのは、私が十二歳の年だった。それまでアデルバーデンの司教のもとに派遣されていた暗号筆記者が亡くなり、新たな暗号筆記者が必要となったためだった。
 修道院長はその時点で、すでに私が最後の暗号筆記者になることを予感していたのだろう。あるいは、もはや司教とのあいだで暗号筆記者の育成と派遣の義務に幕を下ろす話し合いは終わっていたのかもしれない。
 写字室には追加の人員が送り込まれることはなく、私に続く暗号筆記者の育成も行われることはなかった。暗号筆記者だけでなく、写字生や絵師を新たに増やそうという動きもまったく見られず、写字室にいたのはサローと私のふたりきりだった。
 暗号筆記者としての技量を磨くために毎日ハレルヤの暗号を綴るようにと言いつけられ、それを守り続けてはいたが、十八歳の年にアデルバーデンの大聖堂に派遣されるまでの私の毎日は、ごく在り来たりの写字生の生活と変わることはなかった。
 私が文字を綴り、そこにサローが挿絵を描いていく。
 写本工房としての面目を保つのに充分な量とは言えなかったが、それでもその数年間、ザンクト・ホルストでは数冊の写本が作られ、アデルバーデンへと送られた。
 もはや修道院内には技術を持った人材がおらず、装丁の作業はアデルバーデンの市井の装丁師によって行われるのが常だった。だからサローも私も、数カ月をかけた仕事が一冊の本として完成した姿を見たことは一度もない。

 ザンクト・ホルスト修道院には蔵書と言えるものはほんの二十数冊しかなかった。修道院が開かれた時から百年以上ものあいだ、この写字室では写本が作られ続けていたのだが、そうした写本はすべて製作を依頼されたもので、完成した後に修道院に残されることはありえなかった。
 それでも貴重な蔵書を火災から守るために、写字室には一切の火の気を持ち込むことは禁じられている。真冬でも写字室には暖房はなく、日が暮れればもう仕事を続けることはできなくなった。
 寒さのあまりかじかんだ指先を暖めるのは互いの吐息だけだった。
 サローが私の手をとってゆっくりとさすり、長い溜息のようにかすかに温みのある吐息をふきかける。私もその動作をなぞるようにぎこちなくサローの手をとってさすり、同じようにその冷たい指先に吐息をふきかけた。
 互いにそれを繰り返すうちに吐息にどきりと胸を刺すような艷めいた響きがまぎれこむことに私は気づいていた。
 サローの吐息に。
 そして、私の吐息にも……。
 その罪深さに私は身の竦む思いだった。だがそれでも、サローに手をとられる瞬間にはいつも、その響きを心待ちにしていた。
 その色彩に見入っていた。
 サローの褐色の指と私の白い指とが重なり合い、絡み合いながら熱を帯びていくその光景に、目が眩み、意識のすべてが呑み込まれていくような陶酔を感じていた。間近で漏らされるサローの吐息に、そして私の吐息を求めて口元に寄せられるサローの指先に、体の奥底が疼くような愛しさを感じた。
 私はそんな風に愛撫されることを知り、くちづけを覚えた。
 最初は、指先に。
 そして唇と……舌先にも。

 ふたりきりで使うには広すぎる寒々とした写字室で、サローと私は夜明けから日暮れまでの時間のほとんどを過ごした。
 もはや先のない写本工房に関心を持つ者などなく、修道士たちは皆、一様にサローに関わることを誰もが避けたがった。サローと私は誰にも省みられることなく、罪の中に放置され続けたのだ。そして私は罪の重さに怯え、震えつつ、サローの指先に触れられる悦びに溺れていた。
 私たちは写本製作という過去の遺跡に遺棄され、飼い慣らされた修道士としてのあるべき姿を忘れて野生に帰っていく獣のようであったかもしれない。

 ――それは私にとって、まさしく蜜月と呼ぶに相応しい時間だった。



 彩色を行うサローの仕事は、文字を綴る私の作業以上に天候に支配されていた。窓から差し込む陽光の加減が変わったからと手を止めることも珍しくはない。
 そういう時、サローはよく写字室を抜け出して森へ足を向けた。絵の具の材料の多くはそうして森から集められていたし、写本の挿絵や飾り文字の意匠に使う草花の素描をすることもあったようだ。
 だがあの日、サローが写字室を抜け出した理由は……もっと別のものだった。

「お前も……来いよ、ヤン」

 まだ机に向かっていた私に、サローはそう声をかけた。
 私は十八歳になっていた。アデルバーデンの大聖堂への派遣を申し渡される、数日前のことだ。

「でも……」

 私は躊躇った。
 修道院長直々のお達しで聖務日課を免除されているサローとは違い、私には気ままに写字室を離れることなど許されてはいない。そして何より、サローの様子がいつもと違うことに、私は少し臆していたのだと思う。
 サローが何を望んでいることが何であるのかを、私はすでにおぼろげながら感じ取っていた。

「……」

 何も言わずに、サローは写字室を出て行ってしまった。私が堪えきれずに追ってくるはずだと確信していたのだろう。振り返ることさえしない。
 そのことが癪だ……とも思った。
 だから私は再び書きかけの羊皮紙に目を落としてpの文字を書き、それからeと、ふたつのcを書いた。続く文字を綴ることができなかったのは、意味になど気を払うことなく指先だけで綴っていたその文字がpeccata(罪)という単語になろうとしているのだと気づいたからだ。

 Qui tollis peccata mundi, miserere nobis,
 (世の罪を除きたもう主よ、我らを憐れみたまえ)

 その一文を綴り切ることはできずにペンを置き――いや、ほとんど投げ出すような動作であったと言うべきだろう――私はサローを追っていた。




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Date:2011/05/20
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UserTag: 須藤安寿  18禁  BL小説 
Thema:自作BL連載小説
Janre:小説・文学

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