安寿の本棚

□ 罪の書 青の記憶を綴って □

7 失楽園

 夜が明けるころ、私は目覚めた。
 全身を包む疲労が肌にまで滲んでくるような気分だった。
 すでに修道院ではいつもと変わらぬ一日が始まっていたが、私はなおもそうした営みとは別の世界に漂っていた。
 サローは私のためにまだ熱い湯を手桶に満たして運んできていた。清潔な布もある。まるで私がいつ目覚めるのかを知っていたかのようだった。
 ザンクト・ホルストでは他の多くの奢侈を否定しているのと同じ理由から湯浴の習慣もなかったが、疫病の防ぐために効果があるとして清拭を行うことは推奨されていた。そのために新たに沸かすことは禁じられていたが、湯を使っても咎められることはない。
 厨房係はパンを焼く時に竈に、拳ほどの大きさの石を隙間なく並べている。パンが焼けるころを見計らって手桶に水を汲んで持って行くと、そこに熱々に焼けた石を入れてくれるのだ。手桶一杯ほどの水であれば、一瞬でぐらぐらと煮え立つほどに熱せられ、清拭に充分な量の湯を手にすることができた。泉から汲み上げたばかりの水が手を切るほどに冷たい季節には、それは嬉しい温かさだった。
 まるで死人のように埃だらけの床に横たわったままの私を抱き起こし、サローは熱い湯で絞った布で体を拭ってくれた。昨夜の出来事が、ただの悪夢であったのだと思えるほどの優しさ。だがいつもは心地良いと感じるその湯の熱も布の感触も遠く感じられた。まるで全身を包む皮膚が石くれに変わってしまったかのように、感覚が鈍っていた。
 昨夜の光景が、くり返し私の中に蘇ってくる。
 サローは嗚咽する私を床に這わせてなおも欲望を昂らせた。私が気を失うまでのあいだに、二度は達したろう。呆れるほどの好色さ。ほとんど眠ってもいないはずが、私を見下ろしているサローの表情からは疲労も眠気も感じとることはできない。
 私の体を拭きながら、サローは私の胸元にいくつもの擦り傷ができて血が滲んでいることに気づいただろう。獅子の口を跨いだときに牙が押し当てられていた足の付根にも鈍い痛みがあり、点々と赤く痕が残っている。
 物心ついて以来、私は自分の体をしげしげと見下ろしたことなどなかった。性的な意味合いを持つ部位を見下ろしても、それが自分の一部であるという認識は淡く、ひどくいびつと感じられるその造形がサローの目にどう映っているのかも分からなかった。
 だがサローはそれを見下ろしても、何も言わない。
 あの激しい情交のさなかにも、サローは決してそうした部位に手を触れようとはしなかった。写字室でいくどとなくそうしたように私の背に手を回して抱擁してくれたし、くちづけもしてくれた。だが決して、性的な部位を愛撫しようとはしなかった。
 私もまた快楽を渇望していたことに、サローはまったく気づいていなかったのだろうかとも感じられた。サローはただ一方的に私に欲望を注ぎ込み、私はただ犬のようにうしろから犯され続けていたのだ。
 サローに服を着せてもらっているあいだも、私は口を開かなかった。
 何を言うべきなのか、まったく考えつかない。からからに乾いた唇も舌も、言葉を形作る術を忘れてしまっていた。

「立てるか?」

 沈黙を破ったのは、サローのその言葉だった。
 だがやはり、私は何の言葉も紡ぎ出すことができない。ただ小さく頷くのが精一杯だった。ふらふらと立ち上がった私を支えようとしたサローの手を振り払い、私はひとり僧房にもどった。
 途中、廊下を歩いてきた年配の修道僧が、もうすぐ一時課(午前六時・朝食の時間)が始まるぞと声をかけてくださった。皆が礼拝堂へ向かう中、僧房に向かっている私を奇異に思ったのだろう。

「……具合が悪いのです」

 首を振って、ようやくそう言葉を搾り出す。その修道僧は心配そうに私の顔をのぞきこみ、暖かくして休むようにと助言をくださった。
 その労りの言葉に感謝の笑みを浮かべることさえできず、私は僧房へ駆け込んだ。
 頭まで毛布をかぶり、逃げるように眠りに落ちていく。
 僧房の寒さよりも、異端の祭壇と見えたあの厩の光景が蘇ってくることに私は震え続けていた。修道騎士たちの亡霊たちが注視されながら、私はどれほど淫らに声を上げていたのだろう。
 サローの内に棲む悪魔の仕掛けた甘美な罠に、私はまんまと堕ちたのかもしれない。いや、それとも悪魔は私の内にこそ棲んでいるのだろうか。私の肉に宿る性の飢えが、自分でもそうとは知らぬままにサローを惑わしたのか。
 私は流れに翻弄される木の葉のように浅い眠りに漂いながら、その答えを求めていた。
 胸の傷がじわじわと痛む。
 その痛みを感じながら、私はあの悪夢のような情交の只中に引き戻されたように勃起していた。



 丸二日、僧房にこもって眠り続けた。
 世界のすべてがばらばらに砕け散って閉まったかのように、私の心には寂寞たる空白が広がっていた。
 だがそれでも、私は己の罪を心に秘めて日常にもどることを自らに強いた。
 あの情交の痕跡は黒ずんだ痣とかさぶた――どこにも甘美な味わいなどない、ただの痛みに変わっていた。ただの痛みを堪えることの方が、私にはずっと容易かった。
 何とか起き上がり、皆が祈りを捧げている礼拝堂へと向かう。
 礼拝堂の扉を開けた私に注がれた視線。一瞬、その全てが修道騎士の亡霊たちのもののように感じられ、おまえの罪を知っているぞと声高に告げられたような心地になった。

「さて、今日は皆に告げねばならぬことがある」

 私が席に着くのを見届けるや、院長は立ち上がってそう言われた。
 アデルバーデンの大聖堂に派遣されていたブランデル師が、かの地で亡くなられたことが、初めて皆に伝えられる。
 院長はまるで、たった今その知らせを受け取ったばかりのように動揺と悲嘆の胸中を語り――それはすべてのからくりを知る私でさえ、涙を誘われる口調だった――ザンクト・ホルストがその責務を果たすために新たな口述筆記者としてヤンを大聖堂に派遣せねばならないのだと仰った。そして亡きブランデル師の安らかな眠りと、年若く未熟なヤンに神の御加護を求めるための祈りを、と命じられる。
 静謐な祈りの声。
 私は幼いころからその声に包まれて育ち、礼拝堂を満たす祈りを肌に感じる瞬間が好きだった。修道士たちの口から漏れ出た瞬間には不揃いないくつもの祈りが、緩やかな渦を描くように上昇し、丸天井にこだましてひとつとなり、きらめく響きとなって礼拝堂を満たしていく。時には祈りを綴る音が淡い金色の文字となって降り注ぐ光景を垣間見ることもあった。星のように輝きながら、雪のようにてのひらの熱に儚く消えていく無数の文字。私はそれこそがハレルヤと呼ばれるに相応しい綴りなのだと思っていた。
 私は常にその片隅に存在し続けたに過ぎないが、いつか自分のための祈りを皆が捧げてくれる瞬間には手を伸ばして降り注ぐ文字を掴み取れるのではないかと夢想していた。だが、まぎれもなく私のために捧げられたその祈りの声を聞きながら、私の心はまだ異端の祭壇に取り残されたままだった。



 アデルバーデン大聖堂に派遣される暗号筆記者に明確な任期は定められていない。それは可能な限り――つまり死ぬまで――暗号筆記者として勤めよという意味で、生命のあるうちに後任の筆記者を迎えてザンクト・ホルストにもどった者はほとんどいない。
 司教づきの暗号筆記者がその役割を終えるのは、秘密を抱えたまま神に召されるときなのだ。ブランデル師から繰り返しそう教えられていたにも関わらず、私はそのことをさほど悲壮に受け止めてはいなかったように思う。
 例えば私が幼くして修道院に連れて来られ、そのよそよそしいまでの厳格さの中で育ったように、それが自分に与えられた生き方なのだろうと漫然と受け止め、他に選ぶことのできる道があるとは考えたこともなかった。
 もうこの場所にもどってくることはないのだ……と、ようやく実感し、断ち切りがたい名残惜しさが湧き上がってきたのは、写字室でこれまで使っていた道具を片付けていたときのことだ。
 終わっていない仕事もあったが、それはそのままにして手回り品をまとめ、翌日の夜明けには出立するようにと言いつけられていた。
 手回り品と言っても、大したものがあるわけではない。数少ない衣類のほかは、写字室の仕事道具だけだった。
 ペン先を削るための小刀(私が使っていたのは使い込まれた古い小刀で、何世代にも渡ってこの写字室の修道士に受け継がれてきたものだった。私はそれを使って羽ペンを作ることをここで最初に学んだ)。
 蝋の写字板とそこに文字を書くための鉄筆(写字板は蝋を流し込んだ木枠を蝶番で二枚連ねたもので、本のように開け閉めすることができる。鉄筆は一方が文字を書くために尖らせてあり、頭部には半月状の飾りがつけられていた。その飾りを使って蝋に書き込んだ文字を消し、繰り返し文字を綴ることができる。暗号を綴る際の覚書を書きつけることが許されるのはこの蝋の写字板だけだった)。
 定規(これはただひとつ、真新しいまま私に与えられた道具だ。私が正式に暗号筆記者の見習いとなったとき、ブランデル師がそこに文字を綴ってくださった。使い込まれてすっかり黒ずんでいるが『祈るように綴れ。集中し、正確に』の文字は今も読み取ることができる)
 あとは羽ぼうき、コンパス、インク皿、何枚かの手拭……それですべてだった(厳密に言えば衣類やそれらの道具も私のものではなくザンクト・ホルストの所有物だ)。
 束ねられた羊皮紙や、写本の底本として使っていた数冊の本を持ち出すことは許されないだろう。
 最後に机の中にかくしてあった松ぼっくりを取り出し、まだ汚れていない手拭でていねいに包んで荷物の中に収めた。
 私が机の周りを片付けているあいだ、サローは私の行動になどまるで興味がないというように仕事を続けていた。描いているのはアダムとイヴの姿だった。ひと月ほどのあいだサローは黙示録の挿絵にかかりっきりになっていたし、その仕事は完成までには二、三ヶ月は必要だったろう。なぜアダムとイヴなど描いているのかといぶかしむ気持ちが湧き上がる。しかもそれは明らかに写本のページを飾る挿絵ではなく、一枚の絵画として仕上げられようとしていた。
 サローは以前にも同じ場面を描いたことがあるが、そのときとは明らかにイヴの姿は違っていた。

(これは……ぼくだね、サロー)

 受胎告知の聖母を見たときにも、告げられなかった言葉。同じ言葉が、同じように私の舌先でもつれて、声にならない。
 イヴは女の姿で描かれていたが、以前描かれたイヴに比べるとその胸はほとんど丸みを持っていない。蛇に取り巻かれ、輝く金色のりんごを差し出してアダムを誘惑する愉悦の表情。私はサローをそんな風に見つめていたのだろうか。
 私が傍らに立っても、サローは顔を上げようとはしなかった。
 ただ細い筆を使ってひときわ鮮やかな紅の色でイヴの胸元を彩っただけだ。いくつもの傷がかさぶたとなって残る胸の鋭敏な突起をその筆先で撫でられたような気がして、私はめまいを覚え、足元をふらつかせていた。

(サロー、お別れだね)

 涙が溢れてくるのを堪えきれず、私はその言葉を飲み込んで身を翻した。口を開けば、自分が何を言い出すか分からなかった。
 だがサローは筆を置いて立ち上がり、私の腕をつかんだ。

「怒っているのか、だから何も言わずに行くのか、ヤン」

 いつにない強引さで息苦しいほどに私を抱きしめるサローの体もまた、涙を隠しきれずに震えていた。
 サローがそんな言葉を漏らしたのが、私には意外だった。
 ではサローもまた私のように、そしてバベルの住人たちのように、もはや抱き合うだけでは分かり合えぬと悟っているのか。

「怒ってなんか……」

 ようやく口にすることのできた言葉。だがそれも、サローの言葉に押し切られて尻つぼみに消えていってしまう。

「もう二度と会えないんだぞ、それなのにこのまま行く気なのか」

 私はそのときに、囁く悪魔の声を聞いたような気がした。
 ぼくを連れて逃げてと言えよ。そうすれば俺のすべてを手に入れられるぞ……と、サローの中に蠢く何者かが教えてくれた。
 そして私の中に蠢く何者かもまたそれに呼応して叫び出そうとしていた。
 あなたの欲望を、毎夜受け止めてあげる。可愛がってくれなくてもいい。あなたの望むままに何でもするから。だからぼくを行かせないで。こうしてずっと抱きしめて、永遠にあなたのものでいさせて。
 悪魔はサローと私に半分ずつ棲んでいるのかもしれない。そう思い至ったのはそのときだ。サローの褐色の肌に半身を、そして私の白い肌に半身を潜ませている。そうしてふたつに引き裂かれて、悪魔もまた己の半身を欲してもがいているのだ、と。
 だから私とサローは出会い、こんなにも惹かれあっている。そしてこれからもずっと、永遠に互いを欲してもがき続けるのだろう。
 私はそのときに初めて、サローの首に手を回し、そのくちびるを求めた。
 背伸びをしても届かぬほどにサローの背は高い……と思っていたけれど、そのときはほとんど踵を浮かす必要さえなくくちびるが重なり合った。サローが力なくその背を丸めていたせいばかりではない。松ぼっくりをもらったあの日から比べれば、私の背がずっと伸びていたからだ。私はもうあのころのように子どもではないのだ。ただサローに抱きしめられ、守られるだけの存在ではない。
 だから私は悪魔の叫びを押し殺して、サローに笑みを向けた。

「会えるよ、きっと……地獄の炎の中で」



 四年前……それがサローと私の別れの光景だった。




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Date:2011/05/31
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UserTag: 須藤安寿  18禁  BL小説 
Thema:自作BL連載小説
Janre:小説・文学

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