安寿の本棚

□ 罪の書 青の記憶を綴って □

10 煉獄の園

 施療院もまたザンクト・ホルスト修道院の一部なのだが、外部の人にはまったく独立した施設と見えるかもしれない。
 その建物は修道院の本院からは少し離れた敷地の外れに置かれ、修道院よりもむしろ街道へとつながる小路に向かって開かれている。本院とのあいだに距離を置くのは伝染性の疫病に対する備えだが、小高い丘と木立ちを配して本院から施療院の様子が見えぬようにされているのは別の用心からだった。
 施療院ではザンクト・ホルストの修道士だけでなく、近隣の集落で出た病人や怪我人を受け入れて治療をすることもある。病人として、または病人の付き添いとして女性が訪れることもあったから、その姿が本院の修道士たちの視界に入らぬよう配慮されているのだ。もちろん病室でも、男女を問わず外部から来た患者と修道士が枕を並べるようなことはない。
 ジャン師を伴ってザンクト・ホルストにたどり着いた私は、本院に足を向けることなど考えつきもせずにまっすぐに施療院に向かった。
 師は相変わらず意識がなく死人のようにぐったりとしておられたが、暖かい室内で看護係の修道士たちの手当を受け、薬湯を口にされて、土気色だった顔色には少し赤みが指してきたようにも見える。呼吸も、ずっと楽になっておられるようだ。

「ご年配でもあるし、お体も相当に弱っていらっしゃる。まだ油断はできないが、あとは神に祈るよりないだろう。……おまえがついていてもできることは何もない。粥を食べて少し横になりなさい。ひどく疲れているようだ。ずっとご老人のお世話をしながら歩き詰めだったのだろう」

 看護係の修道士は師の手当を終えると、労うようにそう声をかけてくださった。
 あの馬車のことは口にしていなかったから、アデルバーデンからずっと馬を引いて歩いてきたと思われているのだろう。
 子どものころ、ひ弱だった私はしょっちゅう熱を出したり、腹を壊したりして施療院の厄介になっていた。そのころにいつも面倒を見てくださったのがこの修道士だった。もはや頭髪はほとんど白くなって、老いの気配が見え始めている。
 若い修道士はすべて葡萄園での労働に駆り出され、その他の部署はどこも人手不足だった。ザンクト・ホルストでは疫病以来修道士の数は減り続けて、新たな修道士を迎えることもできずにいる。修道院全体を見回しても、私より年の若い修道士はいなかった。小麦畑の大半が放棄され、写本工房が立ち行かなくなったのと同じように、いずれはこの施療院も閉鎖を余儀なくされるのだろう。いや、施療院だけではない。すでにザンクト・ホルスト修道院そのものがじわじわと老いて衰退し、消えて行こうとしていた。

「帰ってきたんだな」

 病室の隅で粥をすすっていた私の横に、マルトという名の修道士がどっかと腰を下ろした。あの疫病の折にザンクト・ホルストに保護された十二人のこどものひとり。三歳年長だったが、それでも私とは最も年が近かった。葡萄園での作業中に怪我をして、手当を受けに来たのだという。
 写字室にいたころは勉強にはちっとも身が入らず、窓の外をぼんやりと眺めてばかりいる気弱な少年だった。葡萄園に行けばマルトはきっと厳しい労働に耐えられずに命を落すに違いない……と、ブランデル師はひどく心配しておられたものだが、数年で別人のように逞しくなった。
 葡萄園で働く者は皆そうだが、マルトは日に焼けて荒れた肌をして、僧衣にも饐えた汗の臭いが染み込んでいる。修道士とは名ばかり、農奴と変わらぬ生活を送っているのだとひと目で分かった。
 私は自分の容貌が男くさくなっているようだと感じていたことに気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。マルトと比べれば私の体つきは今もなよなよと頼りない。葡萄園の男たちの基準に照らし合わせれば、とうてい一人前の男とは認められない存在だろう。

「院長が言ってたぜ、おまえは大聖堂の仕事のためにここにもどってくるが、それが終われば葡萄園で働くことになるだろうって。……おまえは葡萄園で働くには細すぎるけど、俺が助けてやるよ」

 そう言って、マルトは椀を持つ私の手に触れた。肌の感触を味わうように、指のはらでそっと私の手の甲を撫でる。
 危うく椀を取り落としそうになった。
 マルトのささくれた指先や黒ずんだ爪がとてつもなく汚らしいものに見え、触れられた場所が腐っていくような激しい嫌悪の気持ちが湧き上がってくる。
 幼いころから葡萄園を恐れていた私だったが、そこで働く者たちを蔑む気持ちを抱いているのだと自覚したのはそれが初めてのことだった。
 そんなことに……気づきたくはなかった。
 自分の中にそんな醜い感情があることなど、知りたくはなかった。
 多分、それは私の中にずっとくすぶり続けていた気持ちだったのだろう。自分でも気づかぬうちに、私はその思いを心の内に降り積もらせていたのだ。
 ザンクト・ホルストの修道士たちの多くが肌の色の違うサローを差別し、嫌悪し、見下し続けていたように、私はずっと彼らを見下していた。
 サローが私を望まなければ自分もまた同じ身の上であったことなど考えもせずに、私は写字室を追われた彼らを、無知と怠惰の罰として煉獄に落とされた罪人を見るような目で見続けていたのだ。

「きれいな手をしてるんだな。白くて……すべすべだ」

 耳元でささやくように言葉が漏らされる。
 看護係の修道士は隣室のジャン師につきっきりになっていたから、病室ににいるのは私とマルトだけだった。
 日々ペンの当たる右手中指の側面には小さな瘤ができていたが、私の手には手荒れもほとんどない。マルトの手と並ぶとまるで子どものそれのようだ。見つめるマルトの視線にはかすかに性の餓えが感じられる。
 写字室を去ってからは顔をあわせても私に声をかけてくることなど滅多になかったマルトが、何のために猫なで声で擦り寄ってきているのかを悟るにはそれで充分だった。
 マルトは私の庇護者になることを望んでいる。そしてその立場で味わう役得にも無関心ではいない。長年、葡萄園でもっとも年若い修道士として年長者たちに小突き回される存在であり続けているマルトは性の充足とともに自分よりも下位の存在を欲しているに違いなかった。
 幼かったころ……写字室で子どもたちがサローに怒鳴り散らされていたころから、何も変わってはいないのだと感じられた。
 年長の少年たちはいつも私をダシに男らしさを誇って仲間たちを見下す機会をうかがっていた。彼らがまるで争うように私を庇ったのは必ずしも慈悲の気持ちからではなかったし、彼らにとって私は、厳密には仲間のひとりではなかった。
 葡萄園で働く修道士たちのあいだで写字室が密かに〈異教の売春宿〉と呼ばれていたことくらい、私だって知っている。サローと私が罪の関係にあることを、一度でも推測しなかった修道士はザンクト・ホルストにはひとりだっていないだろう。
 彼らにはそれが事実であるかどうかは重要ではない。
 ただ、捌け口を求めているだけだ。
 肉体労働に従事することもなく〈本にかじりつく女々しい仕事〉をすることで同じ食事にありつくばかりか、院長からさまざまなお目こぼしを与えられているサローや私を妬む気持ちもあったのだろう。だがそれ以上に世俗から隔絶され、男ばかりの狭い世界で暮らすことで誰も彼もが肉の欲を持て余し、その苛立ちをぶつける先を欲している。
 日中を室内にこもったきりで過ごす写字室の修道士は、葡萄園の働き手たちのように日に焼けることもなく肌は白いままだ。力仕事と無縁の生活をしていれば、おのずと体つきも彼らとは違ってくる。そうでなくても私のように小柄な修道士は女役に適した存在と看做されやすい。
 僧衣の下にある私の肉体をマルトが値踏みしているのだと分かって、私は少し身を引き、食べかけの粥の椀を置いた。
 マルトの手を振り払って罵倒することもできるが、私はそれを選ばなかった。だがそれはまだ自分の内にある傲慢な差別の気持ちと真正面から向き合うことができなかったからで、決して彼への気遣いではない。

「院長様に、ご挨拶をしてきます」

 私はそう言って、立ち上がった。
 疲労のせいで体がひどく重い。だがそれでもマルトのそばで身を横たえようなどという気持ちには、とうていなれなかった。
 マルトは追ってはこなかった。
 焦らずとも、いずれ私が葡萄園に行けば機会はいくらでもあると思っているのかもしれない。
 本院へ続く小高い丘を登りきったときにふと振り返ると、マルトは施療院の入り口に立って、私を見送っていた。
 愚かなことだ。
 そう思わずにはいられなかった。
 サローと引き離されて葡萄園に行けば、私は容易く彼のものになる――マルトはそれを疑ってもいないのだろう。
 私が男に可愛がられることを好む性癖に生まれつき、サローという情人を失えば見境なく誰にでも淫らな体を投げ出すと思っている。そのときにこそいくらでも愉しめる……そんな期待に満ちた視線。
 だがマルトは気づいてはいない。
 葡萄園での労働に従事するようになれば、私だって今と同じではいられない。かつてマルトがそうだったように、私もまたあっという間に白い手も華奢な体つきも失ってしまうだろう。
 ハレルヤの暗号を喪ったように、私はラテン語もギリシア語も喪う。
 そうして大いなる死によって与えられた役得のすべてをなくしたとき、私は本来そう生まれついたはずのただの名もない汗臭い農奴のひとりになって、薄切りのパンを貪るだけの存在に堕ちていくのだろう。肉体がまだ息づいていたとしても、それは死と何ら変わらないものなのだと私には思えた。

(あなたにはそれがお似合いだ、マルト。煉獄の園の住人となり、野良犬同然に痩せさらばえた私を……その抜け殻のような体をいくらでも貪ればいい。例え死ぬまであなたの玩具になっても、私は決してあなたを愛することなどないから)

 マルトの姿を見下ろしながら私はそう叫びたかった。
 写字室を追われたあとのことなど、私にはもうどうでもよかった。



 院長には手短に帰還の報告をしただけだった。
 再会を懐かしむほど、私は院長とは近しい立場にはなかった。
 院長もまたいかにも迷惑そうな表情で私の報告を聞くと、上っ面の労いの言葉さえないまま、居心地悪そうに読みかけの書簡を繰って退出を促しただけだ。
 ハレルヤの暗号の秘密を売り渡すことを命じた張本人でありながら、そのことにひとかけらの罪悪感さえ抱いていないかのようだった。
 司教が院長からの手紙を私に突きつける以前に、どんなやりとりがあったのかは知らない。だが二、三年、葡萄園の収益からの上納を猶予してもいいとでもほのめかされれば院長は即座にその話に飛びついただろう。
 衰退する一方とは言え、ザンクト・ホルストにはまだ五十名を越す修道士がおり、ともかくもその人数が食いつないで行かねばならなかった。暗号筆記の伝統に幕を下ろすことがどれほど重大な意味を持っているのかを考える余裕などないほどに、ザンクト・ホルストは困窮しているのだ。
 私の身分はまだ正式にはザンクト・ホルストに戻されておらず、客分の扱いだった。院長からはジャン師が回復次第、司教から言いつけられた仕事にとりかかるようにと命じられ、聖務日課を免除し、特別に写字室で蝋燭を灯すことさえ許された。
 さっさとけりを付けてしまいたい。
 そういう心地だったのかもしれない。
 私がまだアデルバーデンで出立の用意をしていた時に、司教は速駆の馬を出してザンクト・ホルストに書簡を送っている。私がどれほど司教を怒らせたのかも、そこには書かれていたはずだ。
 司教も院長も、私をさっさと葡萄園に送りたいのだろう。そして多分、私が苛酷な労働に堪えきれずに早々に野垂れ死にすることを望んでいる。
 だがジャン師が機転を利かせてくださらなければアデルバーデンで殺されていたかもしれないと考えれば……それは温情ある措置とさえ思えた。



 以前と同じ僧房の部屋を使うようにと申し渡されていたが、私は院長室を出るとそのまま写字室へと足を向けた。
 すでに夕刻だった。
 西日を避けて窓が設けられている室内は薄暗い。
 サローの姿はなかったが、顔料の器で溢れかえった彼の机は以前と変わらぬ場所にあった。以前は仕事を終えるたびに院長室へもどすように命じられていた貴重な蔵書が何冊も乱雑に積み上げられている。サローは作業の手を止めたときにいちいち本を閉じて、掛け金をかけておくことさえ面倒がったのだろう。本はどれも前小口が膨らんで開きぐせがつき、ひどい有様になっていた。
 院長は司教から仰せつかった仕事のために特別に蝋燭を使うことを許すと言っていたが、サローの机には半ばほどまで減った蝋燭を立てた皿が当然のように置かれている。
 机の上には彩飾を施している最中の時祷書が広げられたままになっていた。
 カナの婚礼の奇跡の一場面。ヨハネの福音書からの抜粋だ。古めかしい底本と同じ流麗なアンシャル体で、その文字もまた絵画の一部であるかのように美しい仕上がりだったが、二箇所ある綴り間違いまでが丸写しにされていた。おそらくは文字もサローが綴ったのだろう。
 挿絵には華やかな宴の様子が描かれている。繊細な筆致は四年前と変わらなかったが、色調がどんよりと暗いせいでどこか冴えない印象だった。描かれている何人も人物。その中に私は無意識のうちに自分の姿を探していた。
 ふと顔を上げたのは、背後に人の気配を感じたからだった。
 火種を手にして、サローが入り口のあたりに棒立ちになっていた。
 無精髭をこびりつかせ、どこか表情も荒んでいるように見える。サローはじっと私に視線を注いでいたが、何も言わずに私を押しのけるようにして机に向かい、蝋燭に火を灯した。

「地獄の炎の中にしちゃ……やけに寒いな」

 まるでひとりごとのようにサローはそう呟いた。

「え……?」

 一瞬、私は投げかけられた言葉の意味がわからなかった。だがサローの手に引き寄せられたときに、それが四年前、別れ際に私が告げた言葉を混ぜっ返したのだと気づく。

「サロー……」

 強く抱擁されて、呼びかける声が震えた。
 ざらつく髭の肌触り。鼻腔に満たされるサローの匂いを嗅いだ瞬間に、私はめまいを覚え、しばらくのあいだ完全に忘れ去っていた性の疼きを感じた。
 アデルバーデンで何度も恋しく思い返していた褐色の手。その滑らかな肌触りが私の頬を撫で、頭を覆っていた僧衣のフードを取り去った。その下から私の髪がこぼれ落ちたときにサローははっと息を飲んだ。
 挿絵を描くときそのままの繊細さでサローの指が私の髪をすくい上げる。マルトに触れられたときのような嫌悪感は微塵もなく、私はその心地よい感触に酔っていた。

「向こうでは切れとせっつく人もいなかったから……いつのまにか……」

 まるで言い訳のように私はそう口にする。あなたの描く聖母のような、輝く髪が欲しかったからだとは言うのはあまりにも恥ずかしかった。
 だがそんな言葉など耳に入っていないかのようにサローは私の髪にくちづけを繰り返していた。

「汚れているよ。帰ったばかりなんだ。……アデルバーデンを出てから野宿ばかりで、何日も体を拭いてさえいない」
「馬鹿か、おまえは。自分の貞操を心配するところだろう」
「僕は拒まない。知ってるだろう、そんなこと」
「……そうだな、おまえはいつだって、あっけないくらい簡単に俺の言いなりになったっけな」

 サローは小さく笑いを漏らした。隣の机にまではみ出して積み上げてあった本を払いのけるように床に落とすと、私の腕をつかんで押しやる。以前は私が使っていた机だ。

「脱げよ。こっちに尻を向けて机に俯せろ」

 有無を言わさぬ口調だった。マルトから感じ取ったよりもずっと強い性の行為への渇望が、サローの褐色の肌から炎立つように滲んで私を圧倒している。
 いや、そうでなかったとしても私は抗うことなく従っただろう。どうせ他の修道士たちが写字室に近寄ることなどない。堪えきれずに私が声を上げたからといって、今さら誰が驚くだろう?
 そしてサローが餓えているのと同じように、私もまた餓えていた。
 サローのくれる抱擁に、くちづけに、愛撫に。そして欲望に漲るサロー自身にこの身を貫かれるあの衝撃に……。
 以前とはすっかり変わってしまった自分の体がサローの目にはどう映るのかと怯えていたことさえ、そのときは頭から吹き飛んでいた。
 骨ばって、以前の柔らかさやしなやかさを失ってしまった体。そして四年前にサローがくちづけをしてくれた背中も、醜く変わり果てているに違いない。
 自分では確かめようもなかったが、私の背中には無数の鞭の痕が残っているはずだった。




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Date:2011/06/03
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UserTag: 須藤安寿  18禁  BL小説 
Thema:自作BL連載小説
Janre:小説・文学

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