安寿の本棚

□ 罪の書 青の記憶を綴って □

11 贖罪の祈り

「鞭か……。誰にやられた?」

 私が肌着を床に落とし、素肌を晒して机の天板に手をつくのをじっと見守って、サローは静かにそう言った。フードの下から私の髪がこぼれ落ちたのを見たときほどの驚きは、その声の調子には現れてはいなかったように思える。

「自分でやったんだよ」

 私もまた、静かにそう答えただけだ。
 それは嘘ではない。
 肩口から斜めに背中に走る傷跡を見れば、サローにもそれは分かったはずだ。
 私は定められた手順を厳格に守って、その行為を行っていた。そう……私はアデルバーデン大聖堂付属修道院の僧房で、しばしば自らの背を鞭打っていたのだ。

「アデルバーデンで、何があった?」
「何も……」
「ふざけるな。何もなかったのにこんな傷ができるわけないだろう」
「……何も、話せない」
「ハレルヤか……」
「うん」

 小さく頷く私の言葉に、背後でサローが舌打ちを漏らした。だが、それ以上何も問いかけてはこない。
 サローは七歳のときに母親の手でこの修道院に連れてこられ、以後はザンクト・ホルストの写字室で絵師として生きてきた。サローに写本装飾の技術を教えた絵師はまだ私が幼かったころにこの世を去り、サローも私と同じように年若くして写本製作の一過程を任される立場となっていた。葡萄園に連れ去られた子どもたちとは違い、サローはハレルヤの暗号の存在や、暗号筆記者の育成が行われていることも知っていたのだ。だが、サローがその秘密に触れることは決して許されなかった。
 ブランデル師がアデルバーデンに赴任されたとき、私はわずか十二歳で、まだ秘密を守りぬく力などない子供だった。もし他の誰かではなく、サローに秘密を明かせと強いられれば、私には拒むことなどできなかっただろう。
 おそらく、サローもそう気づいていたのだと思う。私がその重さに耐えきれずに秘密を漏らしてしまうかもしれない……と。サローがハレルヤの暗号に関わる話を決して口せず、耳をかたむけることもしなかったのは、そのためであったに違いない。
 サローは暗号筆記者である私を愛してくれた。だから沈黙を守り続けたのだ。そしてその沈黙によって私は暗号筆記者の誇りを――秘密を守ることの輝かしさを――学んだ。



 アデルバーデンからもどるとき、私はその鞭を、数少ない着替や、写字のための道具とともに持ち帰っていた。
 それは――日々の糧と、ジャン師が語ってくださった数多くの知識と、魂を腐らせる屈辱を除けば――アデルバーデンでの四年間で私に与えられた唯一の品だった。
 修道士が手にする多くの品がそうであるように、ヴァイスバッハ司教に与えられたその鞭は真新しいものではなかった。
 私に手渡されたとき、その鞭はすでに痛々しい有様だった。幾重にも革を巻いた握りの部分には、以前の持ち主が私よりも少し大きな手の持ち主であったことを示すように指の形が残されており、結び目で小さな瘤を作った四本の房にはどす黒く変色した血がまだらに滲んでいた。司教はそれをブランデル師の形見だと言い、暗号筆記者として私がそれを受け継ぐようにと命じられた。
 ――十八歳であった私が、初めて司教の部屋に呼び出された日のことだった。アデルバーデンの大聖堂に迎え入れられて三日と経たぬうちだったろう。司教は私が部屋に入るなりハレルヤの暗号の秘密を明かせと迫り、私が拒否するとその鞭を取り出したのだ。
 まるで犬に餌をくれてやるように私の前にその鞭を投げ出し、顎をしゃくって部屋の隅の机へ行くように促すと、司教はヨハネの福音書の第一章第一節から第十八節までをハレルヤで綴るようにと命じられた。
 そのあいだずっと、司教の膝の上では、半裸の女がその豊かな乳房をパン種のようにこね回されながら喘ぎ続けていた。

 In principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.
 はじめに言が在し、言は神と共に在し、言は神であった。

 女の喘ぎ声を背中に聞きながら、私はそう書き出していた。覚書など何も必要ない。幼いころから馴染んだその書き出しは諳んじていたから、それをハレルヤで綴るときにも淀みなくペンを走らせることができた。
 あのとき、私は「Verbum(言葉)」という単語を「Hallelujah(ハレルヤ)」に置き換えて綴った。
 それが傲慢な反抗心であったことを、ここに告白する。弁解をするつもりはない。その傲慢さが罪に値することを私はあのときも承知していたし、あのときの行動を、今も後悔はしていない。
 何を綴ろうが、ハレルヤの暗号が私を守ってくれる。ハレルヤの暗号の前には司教は文盲も同然なのだから……。
 その優越感によって、私は屈辱的な時間を耐え忍ぶことができたのだ。

〈はじめに暗号(ハレルヤ)が在し、暗号(ハレルヤ)は神と共に在し、暗号(ハレルヤ)は神であった。〉

 アデルバーデンの大聖堂づき暗号筆記者として過ごした四年間、私は最初に綴ったその一文を思い返さない日は一日たりともなかった。
 それは神々しい神の啓示であるかのように感じられるものだった。
 戦わなければならない。私が膝を折れば、何もかもが喪われるのだから。
 ハレルヤの暗号を綴りながら、私は自らをそう叱咤し続けていた。
 死の間際までブランデル師が使っておられたのだろう羽ペンには、私が自分で削って使うものとは違う癖があり、私はその感触に懐かしさを覚えていた。
 最初にペンとインクを使って文字を綴ったとき、私はブランデル師の使っておられた羽ペンを頂いた。すでに多くの文字を綴ってペン先が開いてしまったもので、師が文字を綴るときの癖が染み込んでいた。そのペンを不器用に握った私に、師がそっと手を添えてJの文字を綴らせてくださった。それからa、そして、n。書き上がった文字は稚拙に歪んでいたが、師が写本に文字を記す時と同じテクストゥールの作法で書かれていた。蝋の写字板に綴る文字とはまったく違うその黒々とした文字の形を、ブランデル師は神への祈りを綴るための文字なのだと私たちに教えた。

『上手に書けたね、ヤン。これでおまえの名は神に届く』

 羊皮紙の切れっ端に綴ったその三つの文字を見つめながら聞いた師のお言葉を……私はあの屈辱の中で思い出していた。
 綴りながら涙が溢れてきた。
 ブランデル師もまた同じ責め苦を味わっておられたのだろうか。自らその体を鞭打つことを無言のままに命じられ、この穢らわしい声を聞きながら、ハレルヤの秘密を売り渡せと迫られたのだろうか。
 私ははっきりと怒りを抱き、綴る文字がその怒りに歪まぬよう苦心せねばならなかった。だがそれでも命じられた文章を綴り終えるのに、さほど時間はかからなかっただろう。

「終わりました」

 そう声をかけると、ヴァイスバッハはまるで荷物をどかすようなぞんざいさで女を膝の上から追い払い、こちらへもってこいと命じた。
 その罪深い行為はすでに終わっていた。
 女が不機嫌そうにしていたので、罪を犯すことを司教から強要されたのだろうと思い、その女に憐れみの気持ちを抱いた。ヴァイスバッハのお粗末な欲望が女を満足させることなく果てたせいなのだと気づくには、そのときの私はあまりにも性の営みについて無知だった。私は間近に女を見ることさえ初めてで、女にもまた性の欲望があるなどとは考えつきもしなかった。
 四年のあいだ、私はいくどとなく司教が情事に耽る声を背後に聞きながら暗号を綴ったが、私が命じられた文面を綴り終えるまでヴァイスバッハの欲望が保ったことなど一度もない。
 私の差し出す書面にざっと目を通し(ただ文字面を眺めただけだ)、ヴァイスバッハはその余白部分に日付を記入し、『アデルバーデン司教 ヴァイスバッハの命により綴る』と書き添えて馬鹿げたほど流麗なサインをした。正式な司教の印章が押された文書は、厳重に封がなされ、アデルバーデン大聖堂の公的な文書として文書係の手に委ねられる。
 それで私の仕事は終わりだった。
 司教の部屋を退出すると、私は一目散に僧房に駆け込んで鞭を掴んだ。あの女の柔らかそうな乳房、耳について離れない喘ぎ声、部屋を満たした性の臭い。それがすべて消えてしまうまで自らの背を打ち続けた。
 気を失うように寝台に倒れこみ、サローにもらった松ぼっくりを胸に抱いて眠りの中へと逃げた。それは私にとって己の罪の象徴だったが、私はその松ぼっくり以上に美しく愛に満ちたものを、何ひとつ見い出すことができなかった。
 ――私の四年間は、そうして過ぎていったのだ。



「痛むのか?」

 傷を労るように私の背にそっと唇を押し当て、サローが言った。
 サローの唇が触れた瞬間、私の体がびくり……と震えたのが、痛みのせいだと思ったのかもしれない。

「今はほとんど……旅のあいだ、鞭は使わなかったから……」
「……そうか」

 ほとんど感情のこもっていない、形ばかりの頷き。サローの求めていたのは、そんな答えではなかったのだろう。
 サローの手が私の背を撫で、肩や、腰の形状を確かめるように動いていた。私の腰に押しあてられたサローの下腹はすでに猛っていたというのに、サローはかつてそうであったように性急に私を貪ろうとはしなかった。
 そのときになって、私はまた不安にかられた。
 サローが愛したのは、まだ少年の面影を残した私の体だったのかもしれない。十八歳の私の、もっと華奢で柔らかな肌に包まれていた体。ただ私の背を撫でるばかりでサローがそれ以上の行為を求めようとしないのは、そのせいなのかもしれない。

「すっかり変わってしまっただろ、ぼくの体……。だから……?」
「違う。おまえは変わってなんかいない。そうじゃないんだ」

 サローはそう苦しげに言った。
 私は体を起こし、サローを振り返る。サローが泣いているのかと思った。だが、その瞬間、サローは私の肩を掴み、乱暴に机の天板に私の上体を仰向けに横たえた。

「もう鞭を使わないと誓え。おまえが罪を負う必要なんかない。おまえは何も罪を犯してはいないんだから。罪はすべて俺のもので、裁きを受けるのも俺だ。おまえはただ……俺の欲望の犠牲になっただけなんだからな」
「違うよ、サロー。そうじゃない」

 サローはラテン語の綴りと同様に、異端や罪の定義についても中途半端な知識しか持ってはいないのだと私が覚ったのはそのときだった。それも致し方ないことだろう。ザンクト・ホルストの修道士は誰もサローにそれを教えなかった。サローが求められたのは、ただ聖書を美しく飾る技法だけで、信仰とは無縁の存在と位置づけられていたのだから。
 欲望を抱くことが罪であるとサローは考え、奪った者だけがその罪を負うのだと思っていたようだった。
 あの厩での罪深い夜のことを、私は思った。サローは優しくはしてくれなかった。私を悦ばせようともしなかった。私はまるで魂のない品物のように扱われ、ただ一方的にサローの欲望を注ぎ込まれたのだ。それは、私を自分のものにしたいという欲望と、私を清らかなままにしておきたいという愛情と……そのふたつがせめぎあう中でサローが選んだ道だったのだろう。
 それで私を守れると、サローは信じていたのだ。

「あなたのせいじゃないんだ。ぼくはあなたを欲しがって誘惑した。あなたに愛されるに相応しい形で生まれた女たちに嫉妬した。今も……その気持が消えない。だから、鞭が必要なんだ」

 アデルバーデンで目にしたあの穢れた光景は、私に、自らの渦巻く罪をはっきりと自覚させた。
 そう……ヴァイスバッハの膝の上にいたあの女の裸体を見たときに、私は激しい嫉妬を感じていた。その女との行為を愉しむヴァイスバッハに対してではない。そして、その女に対して――でもない。
 もっと広く、女という存在そのものに、嫉妬していたのだ。
 草花から顔料を作ったり、装飾のための素描をするのだと言って、サローはたびたび森へ入っていった。素描など口実で、女と逢引しているに違いないと囁き合う修道士たちの言葉を私が耳にしたのも一度や二度ではなかった。
 私はその噂の真偽をサローに問いただしたりはしなかったし、サローがそんな罪を犯しているなどと考えることが恐ろしかった。だが司教の膝の上で身悶えていた女の裸体を見たとき、私はその答えを得たのだ。
 ザンクト・ホルストにはわずか二十数冊の蔵書があるだけで、写本製作はすべてその蔵書を底本として行われた。例えばサローが挿絵として聖母やマグダラのマリアを描こうと思うとき、手本となるものはその蔵書の中にある挿絵だけしかなかったはずだった。だが、サローの描く女は……もっと美しかった。蔵書の挿絵のどれひとつとして、サローよりも女の姿を克明に描いたものはない。

(サローは、女を知っている)

 初めて――絵ではなく、彫像でもなく、息づいた肉体を持つ――女の姿を目の当たりにしたときに、私はそう覚った。
 そして、嫉妬したのだ。
 私と同じ顔の聖母マリアを描く以前に。
 その褐色の肌で私を愛する以前に。
 サローは、私が顔を知ることもない女のものになっていたのだ。
 そのことに、私は心をかき乱され続けていた。
 炎で炙られるように痛むまで自らの背を打って眠るときだけ、私は嫉妬の苦しみから解放され、ただサローの指先が描き出す美しい色彩だけに思いを馳せることができた。

「……もう、鞭を使わないと誓え」

 机に横たわる私に身を重ね、くちづけを繰り返しながら、サローは言った。
 私はじっと目を伏せてサローのなすがままになって、震える舌で言葉を紡いでいた。

「誓うよ……もうしない」

 その嘘に、私はサローと交わす愛の行為よりも深い罪の意識を感じていた。
 そして初めて向き合う形でサローと交わり、その欲望を身の内に注ぎ込まれながらくちづけを与えられることに、震えるほどの悦びがあることを知った。



 自らの背中にどれほどの傷があるのかを見たことはない。他の誰かに見せたこともなかった。だから私が背負ったその罪の証を目にしたのはサローだけだ。
 サローはそのときも、そして以後もずっと、私の傷について一言も語ろうとはしなかった。取るに足らない傷だったからなのか、それとも、語ることさえ避けたいほどの醜さだったからのか、それさえもサローは悟られまいと口をつぐんだ。
 サローはいつもそうして、沈黙によって私を守った。
 今も……磔刑に処されるイエス・キリストが鞭打たれる場面を描くときでさえ、サローは決して背中の傷を描こうとはしない。




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Date:2011/06/05
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UserTag: 須藤安寿  18禁  BL小説 
Thema:自作BL連載小説
Janre:小説・文学

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